#006 第一章 鳳翔さんが家にやってきた!【05】

「やっべ、カレーマジでうめー!」
「海の家で食べるからというのもあるけどね。でも、ちょっと辛いけど本格的でおいしいわ」
 少し遅くなったが、昼食は豊特製の海軍カレーである。もちろん、サラダにゆで卵、牛乳もついている。
 カレーは程よく辛く、コクがありスパイスの配合も絶妙で、疲れた体に染み渡るようである。
 航一らはしばらく底に足の着かない所で泳いでいたが、『食事ができましたので海からお上がりください』という豊の声が聞こえてきたので、それに従って海の家に戻ったのだった。
「皆様、夜はバーベキューの用意をしておりますので、あまり食べ過ぎないようにしてくださいませ」
 にこやかに言う豊に、航一は興奮気味に詰め寄る。
「このカレー、後でレシピ教えてもらっていいっすか? うち喫茶店だし、じいちゃんに教えてやりたいんで」
「もちろん結構ですとも。それではバーベキューの後にでもお教えしますよ」
 豊が快くそう応じると、航一は満面の笑顔で喜びを表現する。
「やったー! じいちゃんのカレー、いまいちパンチが足りないんだよなー」
「そうかしら。私は航一ん所のカレー、好きだけどね」
 深雪も諭吉も、喫茶あやなみには小さい頃から何度も訪れており、その度にマスターの陸三は喜んで二人にごちそうするのだった。そのときに深雪が注文するのはいつも「海軍カレーセット」である。
「方向性は違うけど、こうちゃんちのカレーも負けてないよ」
 豊のカレーもあやなみのカレーも昔ながらの海軍カレーであり、見た目や具材などで大きな差はない。あやなみのカレーはやや甘口で、コクを重要視しているため、スパイシーさを求めると若干物足りなさを感じるかもしれない。深雪はあやなみのカレーを好むが、航一は辛いカレーが好きなので、その点で豊に軍配を上げていたのだった。
「そっか……そうだよな」
 とはいえ二人に褒められて、自分のことでもないのに誇らしくなる航一である。
「わたくしも、航一さんのお祖父様のお店で食事をいただいてみたいものですね」
「それは良いですね。是非来てくださいよ!」
「ええ。喜んでそうさせていただきます。……と言いたいところですが、わたくしはお屋敷の維持管理をするため、しばらくの間こちらに残りますので……」
 申し訳なさそうに豊が言葉を詰まらせると、前のめりになっていた航一は後ろに尻餅をついて、肩を落とした。
「えー!? そりゃ残念……」
「父さんからは聞いてないけど、そうだったんだ」
 口元に手を当てて、諭吉は何か考える様子で豊を見る。
「ええ。今回の件は管理人の引き継ぎも兼ねているのです。今は現管理人さんの姿が見えなくなっていますが」
「まだ見つからないんですか。そういえば、今の管理人さんってどんな方なんですか?」
 ふと思いついた疑問を、深雪が口にする。
「真島さんという方で、がっしりした体格の……女性です」
 女性に対して使う表現として『がっしり』という言葉を使ったことに罪悪感があったのか、豊の声が尻すぼみになる。
「がっしりした、女性……」
 よく噛み砕いて飲み込むように、諭吉はあさっての方を向いて豊の言葉を反復した。
「はい。たくましくもお優しい方ですよ。わたくしが昨日訪れたときにも、精力的に仕事をこなされていて、軽く引き継ぎを受けさせていただきましたが、親切にお仕事をお教えくださいました」
「真島さん、ですか……見かけたら伝えます」
 何かが引っかかっているようで、諭吉は思案顔のままそう言った。
「ありがとうございます、諭吉さん。よろしくお願いいたします。それでは、わたくしはバーベキューの準備をしなくてはいけませんので、一旦失礼します。お昼が終わりましたら、食器はテーブルの上にそのままにしていただければ、片付けに参りますので」
「えー。食器くらいみんなで持っていきますよ。なあ二人とも」
「そうね。みんなで持っていきましょう。他の女子には私から伝えておくわ」
 航一と深雪が次々に手伝いを申し出る。言葉にはしなかったが、諭吉もそれに頷いた。
 しかし、豊は目を伏せてゆっくりと首を振る。
「いえいえ。それには及びませんよ。……皆様、わたくしのことは気にせず、夕方まで海を存分に楽しんできてください」
 伏し目がちに豊がそう言うと、航一と深雪はそれ以上食い下がろうとはしなかった。
「……そこまで言うなら、分かりました」
「……ありがとうございます。ご厚意に甘えますね」
「…………」
 二人の反応を見て、諭吉は得心が行かないといった表情で黙り込んだ。
「それでは、わたくしはこれで失礼いたします」
 豊はにこやかにその場を後ににした。諭吉は、豊が去り際に自分を見たのを感じて、ピクリと肩を震わせた。
「ゆきっち、どうしたん?」
「……あ、いや、なんでもないよ。ちょっとぼーっとしちゃって……」
 航一に声をかけられ、諭吉は目をぱちくりさせた。
「泳いだから疲れたんでしょ。私もまだ動きたくないわ……」
 気怠そうに右手で頬杖をつきながら、さっきまでにこにこしていたはずの深雪が言った。
「俺は腹ごなしに、ちょっくら外出てくるわ」
「元気いいわね……。いってらっしゃい」
 深雪が胡乱げな目で海の家の外に降り立つ航一を見ていると、諭吉も立ち上がった。
「僕も出かけようかな」
「ん? ゆきっちも一緒に行くか?」
「いや、別行動にしよう。少しばかり一人になりたくてね」
 柔らかく微笑み、諭吉はサンダルをつっかける。
「そっか。じゃ、行ってくるわ。先に海行っててくれていいからな」
「らじゃしたー」
 深雪は左手で頬杖をつき直し、海の家を出る航一にパタパタと手を振った。
 姿が見えなくなるまで航一に視線を送っている深雪を見て、諭吉は小さくため息をつく。
「じゃ、僕も行ってくるよ」
「あいー、いてらー……」
 木製のテーブルに頬を当ててぐったりした様子で言う深雪を顧みることなく、諭吉は海の家を出て、航一とは別の方へ歩き出した。

 ***

 昼食の給仕を終えて本館の事務所に戻ってきた三峰豊は、携帯電話を耳に当てて相手の声を聞いている。
 デスクに置かれているノートパソコンの画面には、島の地図と光る点が数個表示されており、それらがバラバラに動いている。
「……はい。今のところ順調です。残りの有資格者の方々は徐々に別行動を取り始めておりますので、もうしばらく……三十分もすれば開始できるかと。……はい。また何か動きがあれば、ご報告します。では」
 電話を切った豊は携帯電話をデスクに置き、ため息をついた。
「ふう……この姿を維持するのが辛くなってきましたね……もう、そろそろいいでしょうか」
 少しよろめきながら事務所入り口まで歩くと、ドアに鍵がかかっていることを確認して、デスク前まで戻ってくる。
「それでは……メタモルフォーゼ、モードデフォルト!」
 声を押し出すように叫んだ豊の全身から黒い霧が吹き出すと、皮膚がぼこぼこと泡立ち、みるみるうちにトカゲ系クリーチャーを思わせる濃い緑色のものに変化した。体躯は三倍以上も肥大化して身に着けた物をことごとく破壊し、背中からは禍々しいフォルムの翼が飛び出す。手足の爪は鋭く、元の愛らしい造形は見る影もなく、両側に裂けた口は前方に大きく突き出し、汚れた乱杭歯が所々はみ出している。
 なおも吹き出し続ける黒い霧はその濃度を増し、豊であったそれを包み込む。
 どす黒い血管の浮いた巨大な繭と化したそれは、やがて脈動しながら収縮していく。
 そしてそれが豊の姿の三分の一ほどの大きさになると、突然明るい光を放ち始め、並の人間なら目を開けていられないほどの輝きが事務所を満たした。
 唐突に光が消え、同じ場所に現れたのは艦これのチュートリアル娘(初代エラー娘)だった。
「ふう……変身途中の醜いクリーチャーの姿には、一体何の意味があるんですかね……」
 セーラー服を着た愛らしい姿に変じたチュートリアル娘は、艦これ初期においてサーバーの通信エラー時にも出現し、数多の提督達にストレスを与えてきた。『妖怪猫吊るし』とも呼ばれ、両手で猫の両足を掴んでぶら下げてどや顔をする様が描かれていた。ちなみに、今は猫を連れていない。吊されるのが嫌で逃げたのかもしれない。
「さて、皆さんの状況はいかがでしょうかね」
 チュートリアル娘はノートパソコンの置いてあるデスクの前に立ち、あることに気づいた。
「なんですかこの高さ……。むきーっ! きーっ!」
 絶望的なほどではないものの、精一杯背伸びして両手を伸ばしても手は届きそうにない。
 何度かジャンプしてどうにかデスクの縁に手は引っかかったが、自分の身体を持ち上げるための腕力が足りず、やむなく手を離して降りる。
 次にキャスター付きの椅子の上に立ち、そこからデスクにしがみつこうとしたが、滑った椅子から放り出された。
「きゃーっ!」
 盛大な音を立てて、デスクの角に頭を強打したチュートリアル娘は、目を回しながらもフラフラと立ち上がる。椅子を元の位置に戻し、座る部分に頭を乗せると両脚に力を込めて踏み切った。重心が極端に高いため、重い頭を支点に椅子の上で一点倒立状態になる。
「……頭でっかち(トップヘビー)なこのわがままボディが恨めしいですね……。でも、デスクには登らねばなりません。むむむ……」
 逆さまになったまま腕を組み、ひとしきりデスクに登る方法を考えてみたものの、頭に血が上って顔が赤くなるばかりで何も思いつかない。この体勢にはすぐに限界が来て、勢いを付けて椅子の外に飛び出し元の床に立った。
「……やっぱりこの椅子を使うしかなさそうです。まあ、慎重にやれば……ん? これは……」
 再度椅子の上によじ登ろうとして、デスクの袖机の引き出しが目に映った。
「引き出しを段々になるようにすれば……これだ!」
 最下段の引き出しを引いてその上に登り、その上の段を引き出す。これを繰り返して若干不安定ではあるが、三段の階段ができあがった。
 最後の段を慎重に上り、ようやくデスクの上に出る。
 その場にへたり込んだチュートリアル娘は、物憂げにため息をついた。
「高々パソコンの画面を見るだけの任務(クエスト)が、これほど過酷なものとは思いませんでしたよ、とほほ……」
 やがて、落ち着きを取り戻したチュートリアル娘は、顔を両側からぱしんと叩き気合いを付けて立ち上がった。
「さて、お仕事お仕事!」
 パソコンのディスプレイに目を向けると、赤く光る点が先程と比べてさらにばらけていた。
「準備は整ったみたいですね。それでは早速、ウェブカメラを起動して……むむっ、マウスが動かしにくいですっ……あっ……えええっ!?」
 元々デスクの縁近くにあったマウスが、力加減を間違ったせいで、滑ってそのままデスクの下へバンジージャンプしてしまった。
「…………」
 ここまで幾度となく心を折られそうになりながらも、気丈さを貫いていた机上のチュートリアル娘であったが、ここにきてとうとう言葉を失ってしまった。
 幸いマウスは有線で、引っ張れば何とか戻せそうではある。
「うう……」
 陰鬱とした表情で、黙々とマウスのケーブルを引っ張るチュートリアル娘の目には微かに光るものがあった。
 マウスを元の位置に戻したチュートリアル娘は肩をすくめ、これまでで最も深いため息をつく。
「はぁ~……ウェブカメラを起動する前に、大事な手順があるじゃないですか……何から何までダメダメですね……あれ? あれあれ!?」
 ノートパソコンのキーボード手前に手をついてへたり込みつつ画面を見ると、わずかにカーソルが動いていることに気づく。
「これって、まさか……」
 手を長方形の枠の中で動かしてみると、画面上のカーソルもそれに追従する。
「タッチパッドじゃ~ん! しかも、こっちの方が操作しやすいじゃ~ん!」
 マウスを救出する必要がなかったことを知り、やけっぱちな叫び声を上げたチュートリアル娘の目から、やがて大粒の涙が頬を伝っては落ちていく。
「うっ……ううっ。自分の愚かさが許せないですっ……でも、早く任務を遂行せねば……」
 震える中指でタッチパッドをなぞり、画面の上端にある星形のアイコンをクリックする。
 すると島の地図にあるいくつかの赤い点が明滅し、次の瞬間に島の外、つまり海上へ移動した。
 その直後、先程まで明るかった窓の外が急に暗くなり、次第に強風と大きめの雨粒が窓を叩き始めた。
「ふふふ……ふはははは! ここからが本当のお仕事開始ですよ! ウェブカメラ、起動!」
 窓の外に轟く稲光を背にしたチュートリアル娘は、充血した目と鼻水を垂らした凄絶な笑みをカメラに向けたのだった。

 ***

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