#005 第一章 鳳翔さんが家にやってきた!【04】

 連絡通路から本館に入った諭吉は、未だに違和感を拭えないでいた。
 ――やっぱりなんかおかしいんだよね……。確かにここはうちの別荘だけど……。
 三階建ての本館は元々海の家の一部であり、別荘というよりも事務所の入ったビルである。
 簡素な造りの海の家を機能的にカバーするため、更衣室や浴場、寝泊まりする部屋や食堂など、生活に必要な設備は一通り揃っている。
 海の家は一昨年の夏まで毎年営業していたが、経営難により営業停止。そのときのオーナーが建物を売りに出し、それを諭吉の父親が格安で購入したのである。
 現在、営業はしていないが、夏山家の家族や親戚が利用するため、定期的に現地の管理人を雇い、清掃をはじめ水道や電気、ガスの確認などの維持管理をしている。
 今回は諭吉の友人ら多数が来訪することもあって、父親が親戚の三峰豊に案内を依頼してくれていたのである。その辺り特に不自然なところはない。
 しかしどうしたものか、何かが余計で何かが足りない、そんな違和感が島に降り立って以来しつこくつきまとい続けているのである。
 一旦は考えるのを止めたものの、本館に入ると再びそんな疑問が頭をもたげるのだった。
 首を傾げながら合成ゴムタイル床の廊下を歩き、事務所のドアの前まで来たところで、諭吉は人が話している声に気づいた。声の主は豊。誰かと電話で話しているらしく、聞こえてくるのは豊の声だけである。
『はい。問題なく連れて参りました。……はい。今のところは誰にも』
 先刻までの紳士的な声音とは違う、誰かに平伏(ひれふ)すような畏れを帯びた声である。
 諭吉はとりあえず、豊の電話が終わるまで息を潜めて待つことにした。
『……了解しました。引き続き』
「ユキー。ちょっと訊きたいんだけど」
「わっ! ど、どうしたの深雪ちゃん」
 少し遅れて来た深雪が、事務所のドアにへばりついている諭吉を見つけて声をかけてきたのだった。諭吉は慌てて言い繕うが、豊の声はそこで止まってしまった。
「ユキこそどうしたの? 中入るんでしょ?」
「入るよ。今来たところだったからさ」
 冷や汗をかきつつそう言いながら、諭吉はノックしてドアを開ける。
 事務所の中には豊がおり、ちょうど携帯電話を折り畳んだところだった。
「やあ、諭吉さん。それに深雪さんでしたか。いかがなさいましたか?」
 豊の口調は紳士的なそれに戻っており、電話のときの様子は微塵も残っていない。
「あの、管理人さんに挨拶しようと思って。管理人さん知りませんか?」
「それが……わたくしにも管理の方の姿が見えず、諭吉さんのお父様にご報告していたところです。皆様をお連れする前にはいらっしゃったのですが……」
 諭吉の父親と話していたのであれば、電話の声が若干緊張した様子だったのはおかしくないだろう。口調についても、自分達への話し方と違うのも当然ではある。
 そう納得した諭吉は、ようやく落ち着きを取り戻した。
「買い物とかトイレ、かもしれませんね。そういえば、深雪ちゃんはどうしたんだっけ?」
「あ、そうそう。……えっと、女子更衣室ってこちらにあるんですか?」
 諭吉に訊くべきか豊に訊くべきか。深雪は少し迷った後、豊に尋ねた。
「ええ、ございますよ。まだ皆様にお伝えしておりませんでしたね。申し訳ございませんでした。それではご案内いたします」
「あ、僕が分かるから、案内するよ。三峰さんはお忙しいだろうし」
「お気遣いありがとうございます。では、諭吉さんにお任せいたしましょう」
「あとさ、もうすぐお昼だけど……ご飯はどうなってる?」
 深雪が、今度は諭吉に訊く。少し恥ずかしいのか声が小さい。
 諭吉が口を開こうとしたところ、豊が先んじて答えた。
「申し訳ございません。準備にもうしばらくお時間をいただきたく。海に来られて早く泳ぎたい方も多いでしょうし、一時間ほど海に入ってこられてはいかがですか?」
「あ、それもそうですね。男子連中はもう水着に着替えちゃってて」
「ふふ、それはお気の早いことで。それでは、わたくしはお食事の準備をいたしますので、皆様はしばらくの間、お気をつけて海をお楽しみください」
 豊は上品に微笑み、一礼すると事務所を出て行った。
 即席の笑顔を貼り付けていた諭吉は、一度表情をリセットし、ため息をついた。
「どうしたの、ユキ?」
「いや、なんでもないよ。更衣室、案内するね」
 今度は微笑ながらも本当の笑顔を深雪に向ける諭吉だった。

 ***

 ようやくGOが出て、既に準備運動まで済ませて飢餓感がMAXとなっていた一行は、堰を切ったように我先と海の家を飛び出していく。
 航一もご多分に漏れず、海を目指し軽快に砂浜を走る。
 海の家から海までの半分程を進んだところで振り返り、歩く深雪とそれに歩調を合わせる諭吉に向かって『早く来いよ』と催促する。
 それに応えて、深雪は呆れた顔で、諭吉はこの日一番の笑顔を見せて足を早めた。
 深雪の水着は白いワンピースタイプで、腰の周りにフリルがついている。胸のサイズは特に大きくもなく小さくもないが、スレンダーな体型を考えると、十分にボリューミーであるといえる。
 ちなみにどうでもいい情報だが、航一と諭吉はショートボクサータイプの水着である。実にどうでもいい。
 砂浜に吹き付ける潮風は心地良く、海水浴客を歓迎するかのように波も穏やかで、絶好の海水浴日和である。
 正午過ぎということもあり、太陽は最大出力で地上に熱エネルギーを送り込んでいる。
 先陣を切った男子達は、焼けた砂浜を踊るように駆け抜け、次から次に海へ入っては、足の裏の清涼感を堪能している。
「きもっちえぇ~!」
 少し温い海水に素足を浸して立ち止まり、航一は心地良さに身を震わせた。
「深い所まで行くわよっ」
 後から来た深雪が背中に手形が付くほど激しくビンタして、航一を追い抜いていった。
「いってー! 何しやがんだ!」
「おっさきー」
 続いて、諭吉が航一の肩を軽く叩いて深雪を追いかけていく。
「ちょっ、待ちやがれー!」
 少し遅れて走り出した航一は怒声を上げるが、その顔はにこやかである。
 走り始めて程なくして深さが増し、へその辺りまで海水が当たる。ここまで来ると走るのは困難である。
 深雪と諭吉はだいぶ先の方の海面で頭を上下させている。もう足が着かない深さの所まで到達しているようだ。
 二人に追いつこうと航一は平泳ぎのスタイルに切り替え、水底を蹴った。
「うわぁっ!」
 前進し始めたところで膝頭に柔らかい何かが当たり、航一は慌てて動きを止めた。振り返って下を向くと、底に黒っぽい塊から大量の青白い糸のような物が揺らめくのが見える。目を凝らすと、辛うじて人の背中らしいことが分かる。
「誰だ……?」
 少し様子を見ていたが、なかなか浮上してこない。
「おい……大丈夫なのか?」
 心配になって、見えている背中に手を伸ばしてみたところで、それは急速浮上してきた。
「わっ!」
「せっかく気持ち良く潜っていましたのに、何か御用ですの?」
 航一の前に勢いよく現れたのは、提督もとい、学校指定のスクール水着を着た南部千早だった。
「スク水……」
 『長いこと潜水していたのに息が上がっていない』とか、『水中に蹲(うずくま)って楽しいのか』とか、突っ込みどころはいくつもあったが、咄嗟に口を突いて出たのはそれだった。
「本当はイオナさんとお揃いのセーラー服風の物が欲しかったのですけれど。あ、もちろんアニメ版の方ですわ。わたくし、原作はまだ読んでおりませんのよ。それで、先程着ていた衣装は水着仕様になっていなかったので仕方なくスクール水着に着替えましたの。もう少し色の薄い紺色の方が良かったかもしれませんわね。髪は束ねるべきではないと思いましたので、そのままにしましたが、広がって漂うのが想像以上に面白いですわ。金岡さんもそう思いません?」
「…………」
 反射的に大江摩耶の姿を探したが、そうタイミング良くいるわけはない。仕方ないので、とりあえずぶつかったことについてフォローしておく。
「……悪ぃ。さっき足が当たっちまったみたいだけど、大丈夫か? まあ、その様子だと大丈夫なんだろうけど……」
「ええ。特に問題はありませんわ」
「そうか。それなら良かった。しかし、何やってんだ? こんな浅い所で」
「イ401ごっこですわ」
 バーンという効果音とともに、航一は千早を中心にした集中線が見えた気がした。
「いや、胸張ってドヤ顔で言われても……」
 千早は航一よりリンゴ一個分背が低い。しかしその身長の割に、意外なほど立派な胸部装甲を持っていた。スクール水着がいささかどころではなく窮屈そうである。
「確かに、胸の辺りが張っていて少し苦しいですわね」
 そう言う千早の顔は少し誇らしげだ。
「胸張ってってそういう意味じゃねーよ。どうして沈んだまま動かないんだ? 楽しいのかそれ」
「海水が染みて目を開けられないのですわ」
「答えになってないような……」
「……目が開けられないから動けないのですわ」
「ああ、そうですか……」
 楽しいのかどうかは分からなかったが、とりあえず動けない理由は分かった。
「わたくしは忙しいですので、これで失礼させていただきますわ」
「ああ。俺もあいつらに追いつかないとな」
 航一は目の上に手を当てて眩い陽光を遮りながら、水平線の方を見た。遙か向こうの方に頭二つプカプカと浮いているのは深雪と諭吉だろう。
「きゅーそくせんこー!」
 唐突に叫んで、千早は浅い海の底に潜っていった。着底した後はピクリとも動かない。水の流れに煽られて、長くて蒼い髪が広がってなびく様は、南の島にいそうな派手な色合いのイソギンチャクのようである。蹲るスクール水着は海鼠(なまこ)のようにも見える。
「楽しそうで何よりだな……」
 棒読み気味にそう呟いて、航一は深雪と諭吉を改めて追いかけた。

 ***

 一方、海へ行かず浜辺に残った者もいる。
「大江殿。拙者がオイルを塗らせていただきますよ~」
「結構です。焼くつもりないので」
「そのオイル、貸してもらってもいいですか?」
 海の家近くに設置してあるビーチパラソルの下では、大江摩耶と上井幹久、島崎勝利が三者三様の理由で海に入らずに過ごしていた。
 摩耶は日焼けしたくないから……というのは建前で、本当のところは自身の体型を気にしてのことである。
 幹久は単純に運動音痴だから。体脂肪率の高い巨体が水に浮きやすいというアドバンテージすら無効にする程である。
 勝利はきれいに全身を焼きたいから。日々肉体を鍛えている勝利は、高校にボディービル部が存在すればエースになれそうなレベルの、均整の取れた美しい肉体を備えている。センパイ、キレてます!
 濃いサングラスをかけた摩耶は、パラソルの真下でビーチチェアの背を倒して寛いでいる。胸の上には麦わら帽子がしっかりと載せられている。
 幹久は摩耶の隣で所在なげにしている。ボディオイルを持っていやらしい笑顔で手をワキワキさせていたのは、ただの暇つぶしだったらしく、今は摩耶と同じく横になっている。撓み軋むビーチチェアが可哀想だ。
 パラソルの作る影から外れた所では、勝利がひたすらポージングしながらグルグルと回っている。全身を均等に焼きたいからだという。その様はさしずめ、回されながら炙られるドネルケバブの肉塊である。
 それにしてもこの三人、個性がバラバラで接点が全くない。千早を含めて四人が行きの船で同じボックス席にいたのは何の因果だろうか。

 ***

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